「スポーツがある人生の楽しさ」を




 エ ー ル イ ン タ ビ ュ ー : アトランタ五輪 女子バスケット日本代表 / 「ボールであそぼう」マイスター1号
                                                     岩屋 睦子

 今回のエールインタビューでは、岩屋睦子(ちかこ)さんにお話を伺いました。
 岩屋さんは旧姓、村上さん。1990年代にWリーグ10連覇を成し遂げたシャンソン化粧品の中心選手として活躍
 され、「小さな大黒柱」の異名をとりました。
 また、1996年アトランタオリンピックには、20年ぶりの日本女子バスケット代表として出場。
 最終的に金メダルをとったアメリカ代表と最も僅差の接戦を演じ7位入賞を果たしました。
 そんな岩屋さんは現在、バスケットボールクリニックや幼児体育の指導者として活躍されています。
 同じく元日本女子バレーボール代表で現在は幼児体育指導をしているエールの内藤香菜子さんを聞き手に、
 幼少時代からこの先のことまでお話頂きました。
インタビューアー:株式会社エール 元全日本女子バレー代表 内藤香菜子 

  人生のどこかのタイミングで、厳しいところに身を置けるって貴重な体験ですよね。
  でもあの頃に戻れるって言われても断るけど(笑)。


内藤 岩屋さんは女子バスケットで国内9連覇、アトランタ五輪出場と輝かしい経歴をお持ちですけど、バスケットとはどんな風に出会われたんですか?
 
岩屋 ちょうどミニバスケット教室が4年生の頃に始まり、みんなが行くって言うので私も一緒に参加したのが始まりです。
その頃はバスケ以外にも水泳、ソフトボール、子ども会の行事で相撲まで (笑)。田舎は地域の活動も多かったので色々やっていました。
でもその中でもバスケが一番楽しくて自然な流れでバスケに打ち込んでいくようになって。
 
内藤 ボール競技に限らずスポーツに親しんでいたんですね。
 
岩屋 そうですね。
それで中学に行ったら、先生もしっかり指導して下さり、土日も休みなく練習してましたね。
でも、いま自分が指導する側になって思うと、大人がそこまで休みなく子供につきあえるってすごいと改めて思います。
 
内藤 本当ですね。いま思ったらありがたいです。
 
岩屋 そんな風に指導者に恵まれて、おかげで地方大会に優勝し、この大会で強豪校の先生の目にとまったんです。
もしそれがなければ普通に進学して保育士さんを目指していたと思う。
 
内藤 保育士さんですか。当時から子供がお好きだったんですね。
 
岩屋 内藤さんのバレーとの出会いは?
 
内藤 私も同じように田舎で育って、そこで長身者の選抜で選ばれて。
 
岩屋 へえ。うらやましい(笑)。どれくらい大きかったの?
 
内藤 中1で170センチ(笑)。中二でもう今の身長なんです。
 
岩屋 おぉ。それは選ばれるよ。
 
内藤 でも強豪校の子供達にまじって、全国の厳しい先生達に走り方から叱られたりして。帰りたかったです。
 
岩屋 わかる(笑)。いま思ったら貴重な経験なんだけどね。
 


内藤 岩屋さんが頭角を現しだしたのはいつ頃からだったんですか?
 
岩屋 いや、頭角をどこであらわしできたのかは私自身わかりませんが、私の場合、目標をクリアできたら次の目標って形で、行き当たりばったり人生ですが、ひとつひとつクリアしていき今に至っている感じす。
中学で頑張っていたらスカウトの話が舞い込み、高校を決める時は一度でいいから全国大会に出てみたい。高校から進路を決める時には本当の意味で日本一になりたかったから実業団に進もうと決めて。
 
内藤 そうしてシャンソンに入られたんですね。
 
岩屋 そうです。
バスケで進学するときは父がずっと反対していましたが、シャンソンに入った頃には応援してくれるようになりました。
バスケのルールも勉強して、試合後には「あのプレイの時はもっとこうしたら」とかアドバイスするまでに変わりました(笑)。
 
内藤 (笑)。反対されていた頃は愛娘が強豪校で寮生活を始めるのがお父さんはご心配だったんでしょうね。
 
岩屋 あの3年があったから、その後でも「あの頃以上に厳しい事なんてない」と思えるようになりました。
人生のどこかのタイミングで、厳しいところに身を置けるって貴重な体験ですよね。でもあの頃に戻れるって言われても断るけど(笑)。


要所要所で大事な仕事してベンチに戻る。
そんなスタイルのベテラン選手が海外にはすごくたくさん居る。>>>